中学受験:大正デモクラシーとは?5つの運動でスッキリ分かりやすく
大正デモクラシーは大正時代に起こった民主主義と自由主義を求める運動のこと
こんにちは。かるび勉強部屋 ゆずぱ です。
大正デモクラシーってナニモノ?という問いに皆様はどう答えるでしょうか? 模範的な答えとしては ”大正時代に起こった民主主義や自由主義を求めた運動” のことです d(^_^o)
でも具体的にはどんな運動でしょう…?
”5つの運動”で整理するとスッキリします
何となくモヤモヤする”大正デモクラシー”…。中学受験でも頻出の単元ですが、入試本番に得点にこぎつけるには、具体的な運動とその関連人物までおさえる必要があります∑(゚Д゚)
それでは、解説の詳細に参りましょう!
目次
大正デモクラシーのザックリ全体像
政治運動を中心とした”5つの運動”
さっそく 大正デモクラシーの全体像 を見てみましょうd(^_^o) 大正デモクラシーを一言で説明するならば ”大正時代の民主主義や自由主義を求める運動” のこと。具体的には5つの運動です。
ここでちょっと難しそうな言葉を補足します。
民主主義とは… ”国民が中心の政治を目指そう!”
自由主義とは… “もっと個人に自由をくれ!”
という感じの考え方ですね_φ(・_・
それでは5つの運動について詳しく見ていきましょうd(^_^o)
背景と内容と結果の3点セットでおさえる
大正デモクラシーでは5つの運動をシッカリとおさえることが重要なのはもちろん重要ですが…より受験力をつけるためには以下の3点セットで理解することが超重要ですd(^_^o)
① なぜその運動がおこったのか?(背景)
② どんな運動がおこっていたのか?(内容)
③ その運動の結果どうなったのか?(結果)
運動①:護憲運動
まずは護憲運動です。護憲運動とは、憲法(けんぽう)を護(まも)ろうという運動のこと。大正時代の日本には 大日本帝国憲法 という憲法がありましたが、どういうことなのでしょうか?
①なぜその運動が起こったのか?
背景はズバリ藩閥政治です。藩閥政治とは…たった4つの藩の人たちで政府が独占された政治体制のこと。具体的には薩摩藩(鹿児島)、長州藩(山口)、土佐藩(高知)、肥前(佐賀)の4つ です。
大正時代には大日本帝国憲法という憲法がありました。そこにはシッカリと「色々な人々の意見を聞くために議会を開きなさい」と書かれています。が…政府は4つの藩の出身者ばかり(-_-;)
えっ…内閣総理大臣は国会議員の中から議会が選ぶんじゃないの? それは現在の日本国憲法での話。大日本帝国憲法では天皇が総理大臣の候補者を選んで議会はそれを賛同するだけ ∑(゚Д゚)
こりゃ全く色々な人々の意見が反映されていないじゃないか!ちゃんと憲法をまもって、色々な人の意見を取り入れて決めるべきだ!これが護憲運動の始まりというワケです。
②どんな運動がおこっていたのか?
実際には2つの運動が巻き起こりました。
尾崎行雄と犬養毅は全国各地で演説をしたり議会で藩閥政治の批判をしたりしました。これが護憲運動ですね。吉野作造は「民本主義」という考え方の論文を発表して、民主主義を主張しました。
この2つの運動と関係人物3人をシッカリおさえましょうd(^_^o)
ところで、この「民本主義」という言葉。ちょっと違和感がありますよね。民主主義じゃないの? 民主主義ではなく、民本主義です。この違いについては後ほど解説しますd(^_^o)
③その結果はどうなったのか?
護憲運動の結果、意外と早く結果に結びつきます∑(゚Д゚) 日本の政府のトップである総理大臣は初代の伊藤博文からずーっと山口や鹿児島の出身者や、公家出身の人が就いていましたが、1918年に岩手出身の原敬が総理大臣となる内閣が誕生しました。
これは初の政党内閣といわれています_φ(・_・ 藩閥政治は特定の地方の出身者が指名されて作る内閣。一方で、政党政治は議会で多数を占める政党が作る内閣。つまり…政党内閣=選挙で選ばれた議会の意思がより反映される内閣と言えるのです_φ(・_・
さらに1925年には選挙権の範囲も広がりますd(^_^o) 1925年には衆議院議員選挙法が改正されて、納税額は関係なく25歳以上の全ての男子に選挙権 が!納税額に関係なく選挙権が与えらるこの選挙を”普通選挙”といいますね_φ(・_・
運動②:女性解放運動
つぎは女性解放運動です。女性解放運動とは…ザックリいうと男女の平等を実現しようという運動です。大正時代のころは女性には選挙権すら与えられない男女平等とはほど遠い世界でした_φ(・_・
①なぜその運動が起こったのか?
女性解放運動が起こった背景は極めてシンプルです。圧倒的に女性が差別さている世の中だったから。特に参政権です。女性は選挙の時に1票を投票する権利すらありませんでした。
1889年に作られた衆議院議員選挙法。選挙権は25歳以上で15円以上の納税をしている男子のみ。えっ…女性は? 女性は仮に納税をたくさんしていたとしても選挙権がなかったのです∑(゚Д゚)
②どんな運動がおこっていたのか?
平塚らいてうは ”青鞜” という女性月刊誌を発行。この雑誌は女性のための文芸誌。政治的な女性解放運動を主張したものではなかったと言います∑(゚Д゚) 女性の新しい生き方を描いた雑誌の発刊そのものが女性解放運動の空気を作ったと言えるということです。
そして本格的に女性の参政権を求めるなどの女性解放運動のためにつくられた組織が 新婦人協会 ですd(^_^o) 平塚らいてうや市川房枝 によって設立されました。これは日本ではじめて結成された女性解放運動の団体であると言われています_φ(・_・
③その結果はどうなったのか?
護憲運動とは異なり…すぐに結果にはつながりませんでした。護憲運動で政党内閣ができるも、1936年の二・二六事件以降、軍事政権で戦争に突入する状況の中で女性解放運動は自然と消えてしまったといいます(>_<)
結果につながったのは戦後になってから。1945年の衆議院議員選挙法の改正でようやく女性に参政権が与えられました。1947年の労働基準法で男女の労働賃金が同一とすることも法律でさだめられました。男女平等は戦後になってからであったとおさえましょう。
なお現在の日本でも男女平等は課題となっています。2022年時点で日本は男女平等の度合いを示す “ジェンダーギャップ指数” は世界で116位とかなり世界各国から遅れています(-_-;)
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運動③:労働運動
つぎは労働運動です。労働運動とは労働の条件を確保するための運動。経営者と労働者の戦いです。経営者はお金を払って労働者に働いてもらいます。この状況から労働者の方が立場は弱くなってしまいます。弱い立場の労働者が集団となって運動を起こすのです。
①なぜその運動が起こったのか?
労働運動についても理由は超シンプルです。労働者は経営者からお金をもらって働いています。労働者はお金をもらって働いているという立場上どうしても弱い立場になってしまうのです_φ(・_・
特に大正時代は労働条件に関する法律がほぼありませんでした∑(゚Д゚) 明治維新で”殖産興業”のスローガンが掲げられ、外国に負けるな!みんな頑張れ!という空気が漂っている時代です…。
官営の富岡製糸場でも、過酷な労働がありました。1日12時間の労働はあたりまえ。1ヶ月の休暇はたったの2日しかないことも。まさにブラック企業で…現在では法律違反 です(-_-;)
②どんな運動がおこっていたのか?
鈴木文治を中心とした労働運動です。特に1922年5月2日には鈴木文治が司会を務め、日本で初めての”メーデー”が開催されました。”メーデー”とは労働者が集まって権利を主張する集会のこと。
この”メーデー”では労働者の権利を主張しました。主な主張は以下の3つの主張です_φ(・_・
・1日の労働時間は8時間にせよ!
・経営者の都合でクビにするな!失業の防止を!
・安すぎる賃金はおかしい!最低賃金の設定を!
いずれも現在の法律では厳しく制限されている項目ですね。ルールを破れば違法 _φ(・_・ でも当時はルールがなかったため、圧倒的に労働者が弱い立場だったのですd(^_^o)
③その結果はどうなったのか?
この時代では恐ろしいことにルールがありませんでした∑(゚Д゚) 経営者は ストライキに参加した労働者を片っ端からクビに したり、労働運動に参加する労働者の条件をさらに悪くするなどの弾圧をお行うという最悪の流れになってしまいました(>_<)
具体的な成果となったのは、女性解放運動と同じく戦後になってからです(>_<) 1947年になってようやく労働基準法という法律ができて労働条件が規定 されました。
運動④:農民運動
つぎは農民運動です。農民が社会的な権利を求めて行う運動です。大正時代は土地をたくさん所有する”地主”と地主から土地を借りて農業を行う”小作農”という立場がありました。小作農が圧倒的に弱い立場であるということは想像に難くないですね_φ(・_・
①なぜその運動が起こったのか?
小作農の不満の爆発は 天候などによる不作がトリガ であると言われています。地主から 土地を借りると小作料というレンタル料 的なものを払わなくてはいけません。
土地を借りてそこで農作物がシッカリ収穫できれば、小作料は払えますが、天候が悪くて農作物が取れなかったらどうでしょう?レンタル料は払えなくなりますよね…(-_-;)
そんな状況で起こったのが小作争議です d(^_^o)
②どんな運動がおこっていたのか?
大正時代には小作争議が頻繁に発生しました。小作争議とは地主と小作農の戦いです。小作農が地主に払わなくてはならない小作料を減らす運動や、条件を認めさせるための争いです。
そして小作争議が発展し、日本で初めての全国レベルの運動組織も誕生します。それが日本農民組合です。最盛期には8万人もの小作農が所属し、小作農の条件改善に向けた活動を行いました。
③その結果はどうなったのか?
日本農民組合は結成されたものの、内部での対立が激しくなったことや、戦争への突入で女性解放運動や労働運動と同様に結果につながるのは戦後を待つことになります…。
戦後の1946年から1950年にかけて、戦後改革として”農地改革”が行われ、大地主に偏った土地を小作農にも分配するという政策が行われました。その結果どうなったでしょうか?
大地主は土地を失い、小作農が自分の土地で農作物を作るようになりました。日本では小規模な農家が多くなったというのはこの農地改革によるものだと言われています。
運動⑤:部落解放運動
最後は部落解放運動です。部落って何でしょう? 部落とは差別をされている地域のこと。江戸時代にはえた・ひにんと呼ばれていた人たちが住んでいた地域のことです。
①なぜその運動が起こったのか?
きっかけは 明治政府により宣言された”四民平等” です。江戸時代までは厳しい身分制度があり、えた・ひにんという身分の低い人たちがいましたが…みな平等だと言われたワケです。
平等と言われても…元々”えた・ひにん”という低い身分だった人を平等とできずに差別が 生まれてしまう。それが部落問題です。この差別問題を解決しようという運動が部落解放運動です。
②どんな運動がおこっていたのか?
部落差別を無くすための組織として”全国水平社”が設立されました。この全国水平社が発した”水平社宣言”は、日本で初めて発せられた人権宣言だと言われています。
“人の世に熱あれ、人間に光あれ”
人間は誰しも生まれながらにして平等な存在であり、人間はお互いに尊重しあって大切にしあうことで差別をなくすことができるという思いがこめられています。
③その結果はどうなったのか?
女性解放運動、労働運動、農民運動と同様に、かたちとして成果が現れるのは戦後になってからです。1969年に同和対策事業特別措置法がつくられました_φ(・_・
しかしながら…経済的/生活的な格差は解消されたとは言えず…。
さらには1990年代以降のインターネットの普及でまた部落差別が復活してしまう始末…。2016年には部落差別解消推進法がつくられました。現在の日本にも残る重たい差別問題です。
より理解を深める3つの知識
知識①:民本主義と民主主義の違い
護憲活動で吉野作造が論文で主張したのは“民本主義”ですね。あれ…? 民本主義? 聞き慣れた“民主主義”ではないの? 実は 民本主義と民主主義は微妙に違う んです∑(゚Д゚)
吉野作造が目指したのは間違いなく民主主義です。民主主義という考え方は、主権が国民にあるという考え方。選挙で選ばれた国民の代表があらゆることを決める権限があるというもの。
一方でこの時代の憲法である大日本帝国憲法には天皇主権ということが書かれていました。つまり主権は国民ではなく天皇であると_φ(・_・ そこで吉野作造が作り出したのが民本主義です。
主権は天皇にあるんだけど…
国民の意見を出来るだけ取り入れましょう
これが民本主義です
つまり…国民主権ではないけれど、ほぼ国民主権を目指したというワケです。はじめて聞くと違和感のある言葉 ”民本主義”… 民主主義との違いを理解できましたでしょうか?
知識②:藩閥政治と政党政治の違い
大正デモクラシーで護憲運動が展開された結果として何が起きたでしょうか。”はじめての政党内閣である原内閣が発足した…”みたいな記述をよく見ますが…コレってどういうことでしょうか?
政党政治=民主主義ということ?
なんだかモヤモヤします(-_-;)
まずは政党政治という言葉の意味を確認しましょう。政党政治とは…” 議会で多数派を占める政党が政権をになう政治”のこと。議会の多数はってことは…これはまさしく民主主義ですね ∑(゚Д゚)
一方で、藩閥政治はどうでしょう?実は大日本帝国憲法での内閣総理大臣は、天皇が候補者を指名し、議会はその内容に対して協賛する程度しか関わることができませんでした… _φ(・_・
そういう意味でも政党政治は藩閥政治に比べて、かなり民主主義に近いといえそうですね d(^_^o)
ただ…この時代の選挙権はごく一部の人に与えられた特権的なモノ。この時代の選挙権は全ての国民に与えられていたワケではなく、納税額で制限されたり…女性に選挙権がなかったり…
いくら議会の多数派であっても、その議会を決める選挙がかなり限定的だったので真の民主主義ではないですね。
知識③:選挙権の歴史を流れでおさえる
最後は民主主義を実現する重要な仕組みである選挙権の歴史について確認しましょう。選挙権について書かれた法律は何と言う法律でしょうか?戦前と戦後でその法律は異なりますd(^_^o)
戦前(1889年~):衆議院議員選挙法
戦後(1950年~):公職選挙法
この法律は何度も何度も改正されていますが、中学受験ではザックリ4つのステージをおさえる必要があります。選挙権の範囲がガッツリ変わったタイミングを年代とともにおさえるべし_φ(・_・
① 日本初の衆議院総選挙
明治維新のもと1889年に制定された衆議院議員選挙法。そしてその後1890年に日本で初めての衆議院総選挙が行われました。この時の選挙権は納税額15円以上の25歳以上の男子のみ_φ(・_・
② 普通選挙の実現
大正デモクラシーで護憲運動が展開された結果、1925年の衆議院議員選挙法の改正でようやく25歳以上の全ての男子に選挙権が。納税額によらない普通選挙の実現です_φ(・_・
③ ようやく女性に参政権
女性の参政権が実現するのは…だいぶ後の1945年になってから。いわゆるGHQによる戦後改革ですね_φ(・_・ 20歳以上の全ての男女に選挙権があたえられました。
※このあと1950年に衆議院議員選挙法は、他の関連する法律とまとめて公職選挙法に変わりました_φ(・_・
④ 選挙権が18歳に引き下げ
公職選挙法は頻繁に改正されていますが、選挙権の範囲を大きく変えた改正といえば2015年の改正です。20歳以上にあたえられていた選挙権が18歳以上にまで引き下げられました。
以上が大正デモクラシーをより深く理解し、受験力を発揮するための3つの関連知識でした。しっかりおさえましょう!
まとめ
大正デモクラシーとは…大正時代に起こった民主主義や自由主義を求めた運動のことを指します。具体的な運動のメインは護憲運動ですが、全部で5つの運動をおさえましょうd(^_^o)
それぞれの運動のメインとなる人物もセットでおさえれば完璧ですね d(^_^o)